カテゴリ:エッセイ( 8 )



【1:変なクラス】


 「うちらマジ変なクラス!」という表現がある。
 これは中高生がよく使う言い方で、楽しくて最高!というのを「変」という言葉で表しているんだと思う。僕自身も高校生のころよく耳にしたし、口にもした。


 でも、どうしてわざわざこういう言い方をするんだろう。
 楽しかったなら「私はすっごく楽しかった!」と自分だけを主語にしても別に問題ないはず。それをわざわざ「変なクラス」と言うのは、クラスという単位で囲うこと自体に意味があるということだ。
 クラスという単位を意識することで、他の人たちにはわからない、自分たちだけが知ってる、ということを強く感じれるんだと思う。「この感じ、うちらにしか分からないよね」というときに楽しさは増幅されるから。
 だから「変なクラス」は、特に体育祭、文化祭、年度末の時期といった、クラスの単位を意識する時期に多発する。他とは違うという感じが出したいのだと思うと、最高という言葉を使わずに変という言葉を使うのも納得できる。


 ただ、多発するということは、本当は変じゃないということだ。
 ここで言う変とは、高校生なのにこんなに盛り上がってるとか、高校生なのに勉強そっちのけすぎるとか、ただのクラスなのに仲が良すぎるということなんだけど、このときに基準にされているはずの「高校生だから行事に興味がなく勉強をしっかりするクラス」のほうが本当は変だ。
 でもとにかく他とは違うと感じたい。ありえないことが起こってるんだと興奮したい。それが「変なクラス」という言葉に集約されているんだと思う。
 僕も高1のときのクラスは、進学校にも関わらず「このクラスは本当に・・」と先生たちがぼやくようなクラスだった。なのにそれをむしろ誇らしく思っていたところがある。クラス替えが近づくと「もうこんな変なクラスにはなれないじゃん」と僕も言った。


 囲う言葉は他にもある。
「いつめん(いつものメンバー)」や「にこいち(ふたりでひとつ)」もそうだし、「最高の4人!」みたいな言葉もそう。
 たまたまパスタを食べに行っただけの5人組を「パスタ会」と名付けたり、よく一緒にいる6人組がみんな名前がNの字から始まると分かれば「N6」と名付けたりするのもそう。グループに名前を付けるのはなぜか女子に多いけど、「地元」や「仲間」といった囲う言葉はなぜか男性をイメージさせる。
 会社や部活、それからアイドルは「同期」や「◯期生」という言葉を多用する。「今日同期で飲みに行くから」や「3期生全員で売れようね!」という言葉からは、単なる区別を超えた「自分たち」という意識がにじみ出ている気もする。
 

 この囲う作業に不可欠なのが、強固な境界だ。ゆるい境界ではだめ。内側と外側をはっきりと分けないといけない。
 だって「自分たちだけ」が楽しいんだから、そのメンバーが入れ替わっていいはずがない。いつめんはいつものメンバーだからいつめんだ。
 たまたまパスタを食べに行っただけの、その後特にパスタを食べに行きもしないパスタ会も「来週パスタのみんなでディズニー行こうよ」というときに他の人を呼んだりしないし、他の人がいるならパスタ会とは呼ばない。地元の集まりなのに「今日は隣の県から8人が来てくれてまーす」はありえない。
 つまり、「囲う」の裏側に存在するのは「排他的」という考えだ。


 排他的(はいたてき:他を排除すること)と表現すると、ただ楽しいだけだったはずのグループづくりが突然強烈な意味合いを持ってしまうかもしれない。だけど、境界を強固にする、メンバーを固定するということはそういうことだ。
 実際、今日遊ぼと誘ったら「ごめん今日パスタのみんなと会うんだ。また今度絶対ね!」のように断られた人もいると思う。別に怒ることではないけど、でもときどき腑に落ちないこともある。
 どうしてかというと、囲うという作業は、囲み終えた時点で「無条件に」他者を排除するから。たまたまパスタを食べに行っただけなのに、たまたま同じクラスになっただけなのに、たまたま同じ地元に生まれただけなのに。たったそれだけの理由で無条件の排除が始まってしまう。


 これは情報に関しても同じことがいえる。
 たとえば「足でリズムを取るのはリズム感のない人だ」というのを聞いたことがあるとする。そうすると、そのあと足でリズムを取る人を見るたびに「うわっ」と思う。プロが「足でリズムを取るといいですよ」とアドバイスをしているのを聞いたらその瞬間に信頼できなくなる。「足でリズムを取るのはリズム感がない人」という情報にまったく根拠がないにも関わらず。
 そうやって、友達だか家族だかから、たまたま最初に入ってきただけの情報を重要視しすぎる傾向が僕らにはある。そのせいで後からきた情報を無条件に排除してしまう。
 朝は常温の水を飲むのがいいと言われていたのに、テレビで「朝は氷水がいいんですよ」と紹介されていたらこの嘘つき番組と思ってしまうし、あのミュージシャンはパクリだらけだと聞いてしまうと、その後どれだけヒット曲が出てもなかなか没頭できなくなる。
 人だろうが情報だろうが、内側にいれれば、外側ができてしまう。その外側がどれだけ素晴らしくても、考える余地もなく無条件で排除、ということ。いるものは拒まず、来るものは拒む。


 囲う理由には、「自分たちだけって楽しいから」ということ以外にも、もしかしたら「安心できるから」というのがあるのかもしれない。
 たしかに、何者でもないよりは、いつめんがいて、パスタ会があって、同期がいてくれるほうがホッとする。
 だけどそれは、逆に言えば、「囲われていないと不安だ」ということになる。どこかに所属していないということは外側の、排除される側ということだから。
 つまり、どこにも所属していないというのは、実は「何者でもない」状態ではないということだ。どこにも所属していなければ、その人は「よそ者」になってしまう。
 安心の裏に不安がある。囲うということはやっぱり排他的だということだ。


 囲うのは排他的だと繰り返していると、囲うのはだめだというのが主張だと思われるかもしれないけど、それはちがう。
 だって囲うって、ただグループを作るっていうだけだもん。みんなしてることだし、僕もしてる。これ自体はなくせない。
 それに、もしなくそうとしたってなくせないと思う。なぜなら、囲うのは「楽しいから」だから。楽しいことには理由なく抵抗する人たちがたくさんいる。ゲームやスマートフォンの利用時間を制限してもなかなか守れないのと一緒。
 

 書きたいのは、囲うって楽しいよねということだ。
 それから、囲うってもはや排他的と同義だよねということ。
 つまり囲うのが楽しいということは、排他的って楽しいねということ。
 囲うのはみんな楽しいと思ってるんだから、排他的もみんな楽しいと思ってるよねということ。


 別に囲うのはいいし、楽しいのもいい。
 でも、排他的って楽しいねという気持ちがみんなにある、ということには自覚的になっていたほうがいいと思う。
 だってこれはいじめと同じ発想だから。


 いじめは、外側と内側を分ける行為だとも考えられる。
 いじめる側は必ず「うちら」と「あいつ」とを明確に分ける。いじめる人といじめられる人が、日替わりで流動的に入れ替わるなんてありえない。
 いじめにも強固な境界がある。その仕組みは、今の囲う話と「度がちがうだけで」まったく同じだ。生物学的には大きさの差しかないというクジラとイルカのように、違うっちゃ違うけど、同じっちゃ同じ話。


 なんであんなひどいことができるんだろうと、いじめのニュースを見て思う。でもそうじゃないかもしれない。ひどいことをしようとしたわけじゃなくて、ただ楽しいから始めただけなのかもしれない。
 排他的って楽しいね。そのスイッチは、なんとみんなが持っている。


 いじめってなんで起こるんだろうとか、どうしたらなくせるんだろうと、ほとんどみんな考えたことがあると思う。だけど、そうやってまるで外側から眺めるみたいに考えていてもだめなのかもしれない。
 排他的って楽しいねと思うスイッチは、みんなが持ってる。見た目も能力もさほど変わらないのになぜかいじめられるのと、ただ境界の外になっただけでパスタ会に断られるのとは、構造としては変わらない。パスタ会に行けなかった人も、タイミングによってはめちゃくちゃ傷つくこともある。


 仕組みは同じ。度がちがうだけ。でも、その度はどうやって調整する?
 楽しいときにブレーキをかけようなんてまず思えない。エスカレートしてしまう可能性だって十分にある。
 ただ楽しくて囲うだけのグループが、度を超えるといじめになるだけ。スタートは同じ。だから、もしかしたら自分だって加害者になるかもしれないと考えないといじめはなくせないかもしれない。いじめっ子は、いじめっ子として生まれてくるわけじゃない。


 囲うのが楽しいのはそりゃそうだし全然いいけど、その結果暴力が起こったり、いじめが起こったり、理不尽な思いをする人が出てくるのはいけない。
 でも仕組みが同じ以上、いつだってそっち側に転んでしまう可能性がある。そのことに相当自覚的じゃないと、ただ楽しかっただけの集まりが、気づけばとんでもないことになるかもしれない。


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【2:風通し】


 私立高校の1年生に聞いた話。
 学校で初めて泊まりの移動教室に行ったとき、生活指導の先生から挨拶の大切さについて1時間近く話があったらしい。その時点でうええって感じだけど、それだけじゃなく、その先生は自分からは決して挨拶をしないことで有名で、しかも挨拶をされても返さないことでも有名だった。
 そのうえ、生徒たちがスマートフォンを没収されている状態で(その校則の是非は置いておく)、その先生は食堂での食事中に自分のスマホをテーブルに置いて、「いけ」だの「うわぁ」だのと大声で野球観戦をしていたらしい。


 正しいか正しくないかを「考え終えた人」は大声になりがちだ。正しいものは正しいし、正しくないものはもうどうやっても正しくないから。
 これはどっちかな、状況はどうだったかなと考えるのは面倒だし時間もかかる。でも「これは正しい」「だからそれは正しくない」と決めてしまえば楽だし、絶対正しいんだから迷うことなく厳しくできる。疑わないと大声になる。拡声器で主張する人もそう。
 世の中に正解があるとするなら、意見のあちら側とこちら側を行き来して、どっちがいいんだろうと「探る姿勢」自体が唯一正しいのだと思う。面倒くさいし時間のかかることだ。でもそのかわり、誰かを大声で非難したりはしない。だって今も考え中だから。本当にすごい人は、声を荒らげない。
 でももう考え終えた人は、絶対に正しいものを強制すればいいだけ。だから当然大声になる。


 こういうことは、風通しの悪い空間で起こりやすい。
 風通しっていうのは、部屋の窓を開けて空気を通してあげること。風通しが悪いというのは、第三者の行き来が少ない、内側と外側に強固な境界がある状態のこと。
 あの生活指導の先生は、私立高ということもあって勤続25年らしい。長くても10年程度の市立校ではあそこまではならないかもしれない。
 挨拶について1時間話しておきながら自分は挨拶をしない。スマートフォンを没収されている何十人もの前で平気でスマホを使える。アホな先生だとは思う。けどこれがこの人の元々備わった性質というわけでもない。
 だって、この先生も他の高校に転勤になればそんな態度を取れるわけがないから。1年目でこんなにえらそうにできるわけがない。ということは、「この空間だから」生じている性質だということ。
 他で取れるはずのない態度を取っている、という時点でアウトなはずなのに、風通しの悪い空間ではなぜかそれが許されて(というより判断機能が失われて)、こんなふうにエスカレートしていくことがある。一族経営の会社や、伝統的に続くものにトラブルが多いのもこういうことだと思う。




 友達には同期の気になる男性がいる。USJに行くと伝えると、彼は当日「ユニバどう?」と連絡をしてきてくれた。
 テンションのあがっていた友達は、ババババッと4件のLINEを送った。すると彼から返事がきて「ふざけんな」と書いてあったらしい。
 数週間後、また普通に連絡をしてきたので、「なんか言うことないの?」と送ると、「あのときはMステですげえいい曲だったから」と言われたという話を聞いた。


 えええええと反応していると、「あれ、そういうリアクション?」と友達が言った。友達としては、原因がわかって納得してしまったようだった。
 それでも「こういう言い方されたら嫌じゃない?」と聞いたらしい。彼は「俺は嫌じゃないから今後もそうする」と返した。これも納得しちゃったと。
 彼は謝らない人だというのを聞いていたので少し覚悟はしていたけど、それでもうーんと首をひねって「やっぱりひどい気がするけどね。自分から連絡してきたんだし」と言った。すると友達は「たしかに」と言ったあとで、「でもね、前に『なんでそういう言い方するの』って聞いたら、『いやこういう言い方お前にしかしないから』って言われたの」と、プラスの情報のように続けたのでゾクッとした。
 とっさに、「DVになっちゃいそう・・」と言ってしまった。


 DVは、締め切ったカーテンの内側の、風通しの悪い空間で行われるものだ。カーテンも壁もないところでおそらくDVは起こらない。「お前にしかしない」というのはうれしい言葉じゃなくて、閉鎖的な空間をつくる言葉だと思う。
 さっきの私立高の先生の話をゆっくりして、風通しの悪いところでは何かがエスカレートしやすいからちょっと怖いと伝えた。
 友達は丁寧に話を聞いてくれたあとで、こう言った。「でもね、彼はすごく家族思いなの。次に好きになる人は絶対家族思いな人がいいと思ってたから」
 正直、うわっと思った。家族思いには、家族以外にも優しい人もいれば、家族だけ思いな人もいる。
 家族だけ、仲間だけが良ければいいやと思ってしまうと当然境界は強固になる。内側と外側がはっきりと区別される。そうなると、たとえば店員さんに冷たい態度を取れたり、コンビニの入口付近で溜まって迷惑をかけれたり、ゴミをポイ捨てできたりする。だってそこは内側じゃないから、どうでもいいから。
 しかも内側の人にさえひどい言い方するなんて。暴言や暴力は愛情のしるしにはならないのに。「家族だけじゃなくてみんなにやさしいのが一番よくない?」と言うと、「ほんとだ」と友達は言った。




 風通しが悪いのは、囲って排他的になったせいだ。
 ああいう私立高の先生もDVも(こちらは予感でしかないし外れるといいけど)、風通しが悪いの悪い環境でエスカレートしていくもの。いじめもそうだと思う。
 他者の目があるところでは起こりえないことが平気で起こるのが境界線の内側。内側では独自のルールが生まれやすい(このルールがおもしろかったりもする。友達同士でしか分からない暗号を作ったり)。ただ、その内側で突然変異のように生じた問題は、外側に見えるようになる頃にはすでに手遅れになっていることも多い。その例は、ニュースを見ていればいくらでもでてくる。
 問題には様々な要因がある。それにいろんな人がいる。でも共通した原因に「強い境界線で囲ってしまうこと」があるというのはやっぱり意識しておきたい。囲うのはみんな好きなんだから。起こす側なのか巻き込まれる側なのかはわからないけど、みんながそのトラブルにあう可能性がある。
 風通しを悪くするとそうしたよどみが生じやすいのに、それでも囲ってしまうのはやっぱり楽しいからなんだと思う。楽しいがゆえにわざと風通しを悪くしてしまうんだから。


 いじめや暴力のようなトラブルとまではいかなくても、風通しの悪い空間ではそこだけの慣習的なものが発達しやすい。
 たとえば僕も所属していた吹奏楽部では、実力のある学校ほど勢いのありすぎる起立と返事をする(冷静に考えれば、プロはそんなことしていない)。他にも、合唱部の口の開け方、街の似顔絵師のイラスト、クラシックCDのジャケット、洋服屋の販売員の接客、選挙の街頭演説、就活のスーツ。
 こういう空間は、せっかく新しく入ってきてくれた人にも「こういうものだから」と教えてしまうせいで、すぐ内側の人間にしてしまう。
 それに、外側から来た人にだって早く安心したいという気持ちもある。本当はお気に入りのスーツが着たくても、周りを見て、就活はああいう色のほうがいいんだなと合わせる。
 同調圧力は内側の人だけが持っている力じゃない。みんなが「囲う」世界のやりかたを選んでしまう。
 もちろん、名産品や独自の祭りなんかの、結果として地元のブランドになるみたいなことはある。けれど悪習もやっぱり多いし、辟易としながら合わせている人もたくさんいるんだと思う。
 最近の例だと、LINEのスタンプのフォント(文字の字体のこと)や、YouTuberの動画の作り方もかなり似通ってる。こんなに新しいものでさえ、周りを見て文脈に左右されて、結果として囲いができてしまう。


 そういうものだからというのが僕はめちゃくちゃ苦手で、普段あまり怒らないけど、そういうものだからを目の前にすると一番感情的になる。
 でも人を傷つけたりしないならまだいい。それがいじめや暴力(当然言葉によるものや無視も含む)に変わってしまうのはいけない。
 ただ、何度も書くけど、囲うという点では全部作られ方が共通しているから、いじめや暴力だけを取り除くことはできない。加害者があらかじめ分かればその人を取り除けばいいのかもしれないけど、残念ながら加害者候補は全員だ。みんな囲う。度がちがうだけ。
 あの生活指導の先生をやめさせても、何も解決しない。




 さかなクンの有名なエッセイがある。
 中学で吹奏楽部に入っていたさかなクンは(水槽関係の部活だと思って入ったらしい)、突然同級生や先輩が無視をされるという事態にでくわして、わけがわからなくなった。だけど大好きな魚にも似たようなことがあると気付く。引用します。


「たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です」


 このエッセイで「囲う」ということばかり書いてたら思い出した文章だった。
 囲った内側の世界。せまい水槽の中。生き物はちがうけど、よく似てる。




 また、最近読んだ文章で目から鱗なものがあった。
 社会学者の内藤朝雄さんのインタビューで、いじめの1つの解決策として以下のようなことが書いてあった。引用します。


「『短期的な解決策』として『学級制度の廃止』『学校への法の導入』をセットで実行することが有効だと思います。
 クラスを廃止し、大学のように授業を単位制・選択制にすることで、人との距離感が取りやすくなります。生徒は授業ごとに教室を移動し、思い思いの席につく。食事も教室や庭、カフェテリアなど好きな場所で好きな相手と食べる。だれかが無視したり、悪口をいってもクラスという閉鎖空間がないので、いじめそのものが力を失います。大学でいじめが激減するのは、そのためです」


 うわあああああと思った。衝撃的だった。ほんとだ。大学にはいじめがない。
 変という言葉をつけなくても、クラスという単位そのものがすでに囲われた風通しの悪い、閉鎖的な、排他的な、よどみを生みやすい空間だったんだ。
 そのせいでいじめが起きるんなら、たしかにクラス制度を撤廃しちゃえばいい。
 僕自身、クラスというものにはいくつも思い出がある。なくすと言われれば、もう通ってないくせに、寂しい気持ちがないわけでもない。でもこういう腐った郷愁感がいくつもの改革を潰してきたんだと思う。
 即刻撤廃すべきだと思う。
 強い境界がなければ、外側で悲しい思いをする人もいなくなる。デメリットがあるのは、内側でぬくぬくしてきた人だけだ。


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【3:潔癖】


 潔癖という言葉は、極端なきれい好きのことだけじゃなく、「こうじゃなきゃいけない」と強く思いすぎてしまうことを指すこともある。
 小さな例でいえば、塾講師をしていたときに見てきた「ノートをきれいに書きたすぎる」生徒もそう。きれいに線を引くこと、いろんな色を使うこと、計算メモは消すことを目的としてしまうその生徒たちは、だいたい勉強が苦手だった。
 潔癖は、理想の自分以外を許せない。完璧主義と言い換えてもいいと思う。「この大学に行かないと」とか、「この仕事に就かないと」とかを強く思いすぎてしまう。努力できる範囲ならいいけど、理想の自分が先走ってしまうことも多い。すると、こうじゃなきゃいけないは、その裏にある「そうじゃないならしたくない」を強めてしまう。
「この大学に行けないなら受験をしない」「この仕事に就けないなら就活をしない」理想の自分になれそうにないことを察知すると、失敗する前に挑戦をやめる。挑戦しないでいれば、理想とは違うだめな自分を見ることなく、完璧なままの自分でいられるから。
 だからこの潔癖、完璧主義には、意外と努力を嫌うタイプが多い。理想だけが独立してあって、そうだったらいいのにの世界だ。でも当然努力とは無関係なこともある。
 引きこもりは、教室で仲良くしなきゃとか、ちゃんと勉強できるようにならなきゃと思いすぎてしまうせいでなることがある。真面目な人ほど理想の自分と比べすぎる。
 さっきのノートをきれいに書きたすぎる生徒は、別に頑張ってないわけじゃない。本人としても自分は頑張ってるという自負があるはずで、だけどふと成績が全然伸びないことに気づくと、突然勉強が嫌いになってしまうこともある。




 熊谷晋一郎さんという大学教授の、大好きな話がある。自立と依存の話だ。
 自立と依存は逆の言葉のような気がするけど、実はそうじゃないと熊谷さんは言う。どういうことだと思う?
 たとえば大学の5階で地震があったとする。避難する手段はエレベーター、階段。他にははしごやロープを使うこともできる。でも、熊谷さんは脳性マヒのために車椅子で生活をしてる。避難する手段はエレベーターしかない。もしエレベーターが止まってしまえば、絶体絶命になる。
 この「エレベーターに強く依存している状態」と比べると、健常者は「エレベーター、階段、はしご、ロープのそれぞれに弱く依存している状態」だと言える。そうやって複数に依存している状態が「自立」だと熊谷さんは言った。ひとつに依存している状態だとそれを失ったときに大ダメージを受ける。でもいくつもに依存していれば、依存していることさえ忘れるぐらい依存状態に無自覚でいられる。実際どれかひとつを失っても、なんとかなる。


 この話はさまざまに応用が利いた。
 電車が止まったときのことを考えればまずはひとつ、思い付くはず。
 他には、たとえば友達。友達がひとりしかいないと、その大事な友達に突然冷たくされたら絶体絶命になる。どうしたのとごめんねの連絡を繰り返しながら、強い孤独感で頭の中がいっぱいになる。でももし友達が100人いれば、友達は多ければいいってものでもないけど、それでもさっきのパターンよりはピンチじゃなくなる。そういうときもあるかなと、むしろ待ってあげられるかもしれない。
 他にもある。僕はメニューの多すぎるご飯屋のことをずっと無計画のせいだと思ってた。僕がお店を出すなら一品にこだわってとことん美味しくする。そうすればコストだって抑えられる。そう思ってた。だけどそのメニューの食材が不作だったり高騰だったりでいつもどおり確保できなくなれば、簡単に経営は困難になる。メニューがいくつかあれば、当然やり過ごせる可能性も高くなる。
 これは実験したわけじゃないけど、もしかしたらトラウマも別の思い出を重ねればなくせるのかもしれない。元カノのことばかり思い出してしまう花火大会にも、別の人とあと20回は行けばもう泣かずに済むかもしれない。


 依存しているのがひとつだけだと、それを失ったときに絶体絶命になる。でもいくつもに依存していれば、どれかひとつを失っても大丈夫になる。
 熊谷さんは、大学に入るタイミングで一人暮らしを始めたらしい。親にだけ依存している状態をとても不安に思ったからだそうだ。ときどき母親みたく世話をしてくれる人が現れると警戒するとも言った。その人がいないと生きていけなくなってしまうから。




 茂木健一郎さんの話にも大好きな話がある。
 小さな頃から蝶が大好きだった茂木さんは、小学校に入ると「蝶オタク」だと言われるようになった。そこで茂木さんは蝶の学会に入ってみることにした。
 蝶の学会では、誰も自分のことを笑わなかった。それどころか、自分よりも立派なはずの大人は自分よりも蝶オタク。そのことにすごく安心したという話。




 つまり、コミュニティを増やすのがいいんだと思う。
 友達にも家族にも言えないことはある。家と学校、家と会社だけでは少なくて、嫌なことがあったら逃げれるおばあちゃんちみたいなところが、本当はあるといい。
 バイトをしたり、習い事をしたり、ネットで気の合う人を見つけたり、本を読んだり、物語やドキュメンタリーを見たりして、コミュニティを増やすのがいいんだと思う。
 そしてコミュニティが増えると、気づくのはなぜか自分のことだったりする。


 家族でいるときの自分と学校にいるときの自分はちがう。家ではママと言ってても、学校ではお母上と言ってるかもしれない(ちがうか)。
 コミュニティが増えると、そのコミュニティごとの自分が出てくる。塾にいるときの自分と、美容院にいるときの自分と、行きつけのお店にいるときの自分はちがう。そうしていろんな自分に会うと、こうじゃなきゃいけないではいられなくなる。完璧主義ではいられなくなる。だって自分でさえ複数いるんだから。
 それに当然、いろんな人と出会えば、いろんな人がいるんだなと思えるようになる。「この大学に行かないと」と思ってたけど、バイト先の尊敬できる先輩は大学すら行ってないかもしれない。いつも眠そうに働いて嫌いだったコンビニ店員も、何か事情があるのかもなと思えるようになるかもしれない。
 僕は、20才ごろのつらい時期に、たまたま遠くに住む人と友達になれたのはとても大きかった。ここじゃないどこかに自分を知ってくれてる人がいるというのは、今の想像力でも足りないほど安心させてくれた。


 家にしかコミュニティがないと、何かあったときに家族へのイライラでいっぱいになる。しかも抜け出す方法がない。イライラしている人の話し合いは意見の暴力になるだけ。
 でもいろいろなコミュニティがあれば、ある人にだけは「聞いてようちの家族さ」とプライベートな話ができるかもしれない。
 あのパスタ会も、この子があの子を嫌い始めて突然不穏な空気が流れ始めるかもしれない。もしパスタ会しか友達がいないとつらいけど、他にもコミュニティがあれば「大変だったよこの間さ」程度の話で済むかもしれない。




 潔癖でいてしまう人は、失敗を恐れて動けなくなるだけじゃなく、なぜか他者への攻撃性を増してしまうことがある。
 第一志望だけ受験して落ちても、自分は「行かなかった」と言える。そんな中、すべりどめの大学に進学したやつらに「そんな3流大学通って何になるの?」と言えてしまう。自分は(失敗してないのでまだ)完璧だからとことん強く言える。疑わないと大声になる。
 ネット上では、顔が見えないから(自分の弱さがバレることもないから)余計に攻撃性を強めてしまう。


 頭の中も、ひとつの場所に居続けると風通しが悪くなる。風通しが悪くなると何かがエスカレートすることがある。コミュニティを増やして経験を増やさないと、頭の中の風通しは良くならない。
 そういう、風通しの悪い、コミュニティの少ない人が使ってしまいがちな言葉に「普通」がある。おそろしい言葉だ。この普通という言葉は非常に強い口調で使われることが多い。それはただの内側の常識というだけなのに。「普通こうだろ」は、見てきたコミュニティの少ない、知ってる普通の数が少ない人が使う言い方だ。
 さらに怖いのは、この「普通」が感覚的で理由がないというところ。理由がないから話し合いはうまくいかない。どれだけ言葉をつくしても、普通こうだろ、ありえないだろという強い口調ではじかれる。
 自分にもそういう経験がある。小5のときに担任になった先生が初めて生徒を呼び捨てにする先生で、相当な抵抗感があった。「呼び捨てにするなんて先生じゃないよ!」と友達んちでそのお母さんにまで言った。呼び捨てにする先生のほうが多いと気づくのは中学に入ってからだった。




 いろんなコミュニティに所属して、いろんな自分がいること、いろんな人がいることを知れば口調は勝手に柔らかくなる。いろいろいるんだな、みんな不完全なんだなと思えれば、強い刃で他者を攻撃したりはしない。疑わないと大声になる。疑わないと楽だ。いろいろ考えるのは大変だしそのたび困惑する。
 でも本当は、強い口調で誰か(と自分)を叱咤しているより、こっちのほうがずっと楽なんじゃないかと思う。
 大声で主張する立派な人は、立派に見せたい人。一生懸命考えてきた人ほど、本当に立派な人ほど、やさしい口調になる。


 NHK「プロフェッショナル」で、ヴァイオリニストの五嶋みどりさんを取材した回があった。五嶋さんは障がいのある子供たちと演奏会を開くことになり、その最初の練習にカメラが密着していた。
 子供の障がいには差があって、既存の曲ではパート分けができないため、その学校の先生がオリジナルで曲を書いたということだった。五嶋さんが学校に着くとまずその演奏を聞いてもらいましょうということになった。
 その演奏が、おせじにもうまいと言えるものではなかった。リズムはバラバラ、メロディもテンポも分からない。ドンドン、バンバンと無心で叩かれているような打楽器の音が体育館に響く。生徒たちの真ん中で、作曲をした先生が指示を出しながらあたふたして「どうしよう」と漏らしていた。オリジナル曲なんて作るから、と正直僕は思った。
 そこで、五嶋さんの表情がアップになる。黙ってその様子を見ていた。「これはさすがに」とか、「ちょっとまずいですね」とかを言うのだと思った。少なくとも僕はそう思った。
 そしてとうとう五嶋さんが言ったのは次の言葉だった。「素直な音が、私には聞こえます。一生懸命している、という音です」
 その言葉にぼろぼろ泣いてしまった。五嶋さんは10代のころから活躍してきた人だから下手な演奏なんて許せないと勘違いした。本物って、一流ってこういうことなんだと思った。


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【4:境界に穴を開ける】


 テレビ東京に「青春高校3年C組」という番組がある。理想の教室を作るというのがコンセプトの、20才までを対象としたオーディション番組だ。
 毎週オーディションをくり返して、合格者が20人ほどになったころ、インタビューで副担任役のNGT48中井りかさんがこんなことを言った。


「いろんな生徒がいるんだけど、もうこの時点でできあがっちゃってるなーとも感じていて。新しい子が入ってきたときに『なじめるかな』ってちょっと不安になっちゃうかもしれないから、ここだけで盛り上がって完結しないで、もっとオープンな雰囲気になっていけばいいなと私は思ってます」


 風通しを良くする、めちゃくちゃいい言葉だ。
 副担任としての立場を意識してたとしても、楽しくなってく場を警戒するのはとても難しい気がする。


 さかなクンは、さっきのエッセイをこう締めくくっている。


「小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう」


 今がつらい人は、それは囲われたひとつのコミュニティにいるからかもしれない。コミュニティを増やすのがいいよ。
 今が楽しい人。その楽しさは排他的な構造から来てる可能性があるから、よーく注意して。
 別に自分たちが楽しければいいよと思っていたとしたら、それ自体が排他的な証拠。
 排他的とは、自分が自分ち以外を全部ゴミだらけにするということと、他人が自分ちをゴミだらけにするということ。そういうことだと思う。



あとがき

 バラバラに考えてきたことが繋がって、多構造的なエッセイになりました。
 繋がっていくのが、伏線回収する小説のようで興奮しました。
 そんな気持ちで読んでもらえてたらうれしいです。



参考資料
(いじめられている君へ)さかなクン「広い海へ出てみよう」
「学校のあたりまえを疑え!」 社会学者 内藤朝雄さん
熊谷晋一郎(主に出演されていたNHKオイコノミアでの話を参考にさせていただきました)
茂木健一郎(記憶にあったのは別の記事ですがだいたい同じ内容です)
プロフェッショナル仕事の流儀 五嶋みどり
青春高校3年C組 座談会




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by yasuharakenta | 2018-12-18 00:04 | エッセイ


 文化系とか草食系に分類されてしまいそうな見た目を自分はしているらしいが、それは表面的な話。でも別に、もっと中身を見てほしいと思ってるわけじゃない。見た目は他にもあるよということ。つまりすね毛が濃い。
 そんなすね毛を今までに3回剃ったことがある。


 まずは小6の頃。なぜか周りの男子の間ですね毛を剃るのが流行りだした。理由は分からないけどそうしたほうがいいんだろうと、風呂場で父親のひげ剃りを手にしてみた。
 たまに母親が顔剃りをしてくれるときは、いつも「動かないで!」と強い口調で言いながらシェービングクリームを塗っていたので、毛を剃るには①動かないこと②クリームを塗ることが絶対条件だと思ってた。
 だからクリームをつけなければ剃れないだろうと試しに当ててみただけだった。でも少し動かしただけでスーッと普通に剃れた。楽しくなって膝まで全部剃った。
 剃ったことを周りの男子に気づかれて「お前何勝手に剃ってんだよ!」と言われるのもめんどくさかったが、特に何も言われなかった。


 そんなことより、少し経つとすね毛が濃くなって生えてきた気がする。だから焦ってもう一度剃った。そしたらまた濃くなった。今思えば、元々はそんなに濃くなかったのに。
 俗説の「思春期に体毛を剃ると濃くなる」は、結局真偽がどっちなんだろう。それは間違いだという説は、成長期なんだから剃らなくたって濃くなっていたはずということらしい。でも顔のヒゲだって一度も剃らなければここまで濃くなってなかった気もする(そのかわりめちゃくちゃ長くなってる気もする)。毛の細いところを切ると、根本付近の太いところが先端にくるわけだから、やっぱり濃くなる気もする。
 ただそんな考察ができるわけもなく、できたとしても濃くなったのには変わりがなく、2度の過ちについてこう考えていた。
「クリームを塗らなかったのがいけないんだ・・・」


 大学1年生が終わって春休み、この頃は何だかいつもしんどくて、その日は初めて漫画喫茶の深夜パックで朝まで入り浸ってみることにした。
 でも別に楽しくはなかった。貧乏性なのか、漫画も急いで読んでしまって結局頭に入らない。明け方近くなっても明るさの変わらない部屋で突然、すね毛を剃ってしまいたくなった。冬だし長ズボンだし、と思ったらその衝動はよりいっそう強くなった。
 家に帰ると風呂場に直行して、今度は自分のひげ剃りで、ちゃんとクリームもつけた。なのに剃ることができない。剃ろうと思うとガッと刃が止まる。それは、小6の頃よりも伸びたすね毛が刃に絡まるせいだった。
 なるほど、稲刈りみたいな作業が必要なのねと、洗面所から電気シェーバーを持ってきて、トリマー機能で刈りまくった。刈り終えると風呂場の床が毛だらけになったので、水で流す前に新聞紙を持ってきて包んで捨てた。そのあとでようやく、ちくちくになった足をひげ剃りでつるつるにした。
 その1年後ぐらいに、本谷有希子さんの「生きてるだけで、愛」を読んでいたら全身の毛を剃ってしまう女性がでてきた。頭の毛も眉毛も。たしかその本の中で、剃毛も自傷行為の一種だと書いてあって妙に納得がいったのを覚えてる。あの頃は、何かといつもしんどかったから。


 そして今年。2018年。
 足をきれいにしたいというよりは、毛を剃ってしまいたいという衝動に近かった大学生のときとは違い、足をきれいにしてみたくなった。無秩序に生えるすね毛を見るのはもういや! ということで、もう5月ですでにくるぶしの見えるタイプのズボンを履いていたのにも関わらず、どうせ誰も見てないやと決行することにした。
 手順は把握済み。まずは風呂場じゃなくて、部屋にチラシを敷いてその上で稲刈りを実行した。今回は思い切って膝を超えて、足の付け根まで剃ってみることにした(思い切ってとは)。荒れ地だった大地の地肌がだんだんと見えてくる。電気シェーバーの充電がちょうどなくなったときに足2本分をすべて刈り終えた。
 刈ったばかりの稲を全捨てして、風呂場に移動して、右のすねにシェービングジェルを塗りたくった。そして、目につくところから闇雲に剃っていたのだけど、それでは効率が悪いらしいぞと気付く。どこを剃ったか分からなくなれば、重複して剃ったり、逆に剃り残しを起こす危険性があった。
 ということで左のすねは一列ずつ剃ることにした。これはほんとトラクターと同じ。ランダムに走るトラクターをイメージしたらアホすぎて苦笑いした。ちなみに、毛の濃さと多さのせいか、一列一気に行きたくても途中で進みにくくなるので、途中からすねを2等分してその区画内で順々にトラクターを進めていった。すねが終わると、ももも2等分して同様に進めた。もも裏はとても難しかった。


 方法論が定まると、あとはひたすら作業をするだけ。久しぶりで忘れていたけど、だいぶ大変な作業だった。黙々とトラクターに乗りながら、この作業を日常的にしてるであろう女性について考えた。
 いくら自分に身長があるほうだからといって、作業工程や往復する回数にそこまで違いがあるとは思えなかった。毛が薄くても全面作業には変わりはない。その作業を(作業と呼んでいいのかな)腕も脇も、おそらく数日ごとに多くの女性が行っているのだと思うと、えらいなあというか、気が遠くなるようだというか、いや正直なところは、申し訳ないような気持ちになった。別に男性のためにやってるわけでもないのに。
 ときどき、ほんとうるせえなと思うけど、アイドルの写真を拡大して調べて「剃り残してんじゃん!」とか言うやつらがいる。見んな、と思った。


 そんなこんなで足一本ずつをまるまる剃り終えた。
 手を滑らせて剃り残しがないかを確認して(別にあってもいいんだけど)、お湯で流して、無事つるつるになった。思ってたほどきれいじゃなかった。
 ガシガシ剃ったので一応保湿クリームを塗る。その感触にめちゃくちゃ違和感があった。足って、見た目はつるつるでも実際はつるつる滑るわけでもなく、なんというか、ぬまぁっとした感触だった。
 トランクスと短パンを履くとまた強い違和感があった。内もも・・・! 布にダイレクトに当たる感じがたまらなく気持ち悪い。歩いていても座っていてもそわそわした。
 それにトイレの便座カバー。毛にカバーが当たらないのが変なのか、肌にカバーが当たるのが変なのかが分からないが、とにかく変。指ではカバーの感触を知ってるわけだから初めて触れるものでもないのに。過保護な毛のせいで触覚機能がバカになってしまったももちゃんに「これが便座カバーですよ、はい」(ももちゃん、ここで「これが便座カバーです」と復唱)と教えてあげてるような気持ちだった。なかなか覚えの悪い生徒で、先生たいへんでしたよ。(ちなみに2、3日経つと、少し生えた毛がグサッと刺さる感じもこれまた気持ち悪かった。)
 そして「毛を失ってなんだこれ大賞」はお風呂。湯船で毛が揺れないせいか、もはや別のものに入ってる感覚だった。今まで数万本の毛が触覚として機能していたんだということが分かる。全然リラックスできなかった。
 ときどきバラエティ番組で芸人さんが、女装したり裸になったりするために体の毛を剃ることがあるけど、収録後に人知れずこんな違和感を感じてたのかなあと思い馳せてみた。日村さーん。


 結局計4回剃ってきて、誰にも一度も何も言わなかったな。だから大丈夫だよ、何をやっても。
 それにすね毛はすっかり元通り。というかやっぱりまた少し濃くなってるような気がするんだけど・・・思春期?
 ここ最近、11月に入って空気もだいぶ乾燥するようになってきた。内ももが痒くなるから保湿クリームを塗るんだけど、ほとんどを毛が吸収しちゃって肌まで行き届かないんだよね。
 またつるつるにしてやろうかしら。





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by yasuharakenta | 2018-11-30 23:00 | エッセイ


 だめかもしれない、と思うようになった。
 音楽を始めてもう数年。根拠のない自信には自信があった。やめたほうがいいかもと、一度も思ったことがなかった。けど最近はちがう。知らぬうちに削がれていた山は、気づけば丘になっていた。


 長く続けた塾講師のアルバイトを3年半前にやめて、制作一辺倒の生活になるはずだった。しかし待っていたのは慢性的なコミュニケーション不足に耐える日々。所属する場所をなくすということは、事務的な連絡さえなくなるということ、そして、連絡できる相手を見つけられなくなるということだった。誰かと話したくても、LINEの連絡先を上から下までスクロールして、結局誰にも連絡しない夜が何度もあった。
 加えて、ここ2年くらいなぜか無視されることが増えた。えいっと連絡したLINEの未読無視もそうだし、身内からの面と向かった無視もあった。「むしされた!」なんて幼稚な案件のようだけど、実際それで相当なダメージを受けた。
 嫌われる勇気という本で、他者はコントロールできないものだからと書いてあった。だから「こうしてほしいのに」と思うたび、その言葉を頭に浮かべたけど、自分だって上手にコントロールできなかった。


 音楽を初めてYouTubeにアップしたのは2012年。音楽以外にも、エッセイ、詩、ライブ、ラジオ、舞台、勉強のサイトと色々やってきたけど、どれも予想した反応を超えたことはなかった。
 詩を毎日書き始めた頃、毎日というのが思った以上にしんどくてすぐやめたくなった。今日マチ子さんの「誰も見ていなくても描き続ける力」という言葉に励まされて、こないだ、とうとう2000篇になった。だけどそれだけだった。
 ときどき、僕の音楽だったりエッセイだったりを広めてくれようとしてくれる人がいる。自分で「自分のはいいですよ」と宣伝するのはいつも難しくて、だから本当にうれしい。だけどそれも、大体が不発と言っていいような広まり方で終わってしまうから、申し訳ないような気持ちにもなる。
 数千人のフォロワー(投稿を見てくれる人)がいる人が「とってもよかった」と書いても、ぽつんと反応があるだけ。それが続くと、数千人にネット上でも無視されている感覚になっていった。大通りで一人おどけているようなイメージが寂しかった。自虐を言うのはダサいと分かっているのに、「前世で評判とケンカしてきたんかな」なんてつまらないことを何度も書き込みそうになった。
 そして先月末、ラジオの最新回を自分のYouTubeチャンネルにアップしたら、たった55人しかいなかったチャンネル登録者が10人、すぐに低評価ボタンを押して逃げた。
 一人で喋って録音編集をして、動画を一本完成させても、効果音もクラッカーも鳴らない。ただ同じ部屋があるだけ。作業とはそういうものだ。反応がないことも分かってきてはいるけど、このときは押された低評価ボタンのその狙い通り、まんまと落ちこんだ。


 褒められたいのかというと、ちょっと違う。
 褒められたことだけを燃料にしていては、表現の世界ではやっていけない。10の褒め言葉より1のネガティブな評価のほうが気になるものだし、孤独の時間はあまりに長い。
 だけど、圧倒的なコミュニケーション不足と無視される作業に、マイナスの反応が加わると、何のためにやっているのかわからなくなった。根拠のない自信は削がれたんじゃなくて、虚しさに変化していたのかもしれない。そう考えて恐ろしくなる。だって「俺、絶対必要だと思うんだけどな」と、そういえば思っていたんだから。


 ただ褒められたことは、燃料でなくても、何一つ忘れていない。誰から何を言われたのかは全部覚えてる。だってそのつど、助かったって思ったから。
 あいつのケツはデスヒップを聞いて「っていうか歌が上手!」って言ってくれた人。まあるいの「好きなんだよ」のとこがいいんだよねって教えてくれた友達の恋人。フロートが好きで「早くカラオケで歌いたいんです」って言ってくれた後輩。グッドバイは名曲だねってメールをくれた一番好きなミュージシャン。一度消したどこまでも行こう、また聞きたいんですってメッセージをくれたネット上の知らない人。たわわなしあわせを電話越しで歌ってくれた人。やっさんの文章はほっこりするっていうかなんていうんだろう、と言葉を探してくれた人。書いた詩をプロフィールに載せていた人。高い声がいいと思うのにって教えてくれた人。どっちもいいよって言葉、ほんとにいいですよねって言ってくれた人。
 どれもうれしかった。


 そういう、忘れられないものの中に、異質な記憶が一つある。
 塾講師のアルバイトをやめるころに見た夢の内容だ。もともと夢はほとんど忘れてしまう体質なのに、その夢は例外的に、詳細が消えていかなかった。


 デパートの非常階段のようなところを降りていた。室内なのに階段は鉄製で、外階段のように細い柵があった。人気(ひとけ)はなく、すべて同じ灰色。カンカンと足音が鳴った。
 数階分降りると、まだ地上階じゃないのに長い廊下に出た。20m先に白色のドアがあって、その向こうに明るい場所がありそうだった。見つけた、とも思わずそのドアのほうへと歩く。
 廊下は鉄製ではなくマットが敷かれ、足音はすぐ吸音された。
 ドアまであと5m、3m、1m、まさにノブに手をかける、というところで呼び止められた。後ろを向くと当時のバイト先の後輩が5人立っていて、その真ん中にいる、去年就職してやめた小さな女の子がオレンジ色の花束を持っていた。強く鮮やかなオレンジ色だった。花束は数本ではなく、棒状というよりは円柱状のふっくらとした花束だった。
 そしてたぶん、おめでとうございますか何かを言われたんだと思う。
「え、おれまだ何もしてないよ」
 何に対するおめでとうなのか、何に対する花束なのかが分かっていない僕に、その女の子が言った。
「今日もまた一歩、夢に近づきましたね」


 燃料にはしてない、ただ覚えてるだけの、夢の話。
 夜の星の光のような、夢のおはなし。





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by yasuharakenta | 2018-11-14 20:51 | エッセイ


 初めて観た劇団の舞台が面白すぎて大興奮した。
 大興奮しすぎて、一度駅まで行ったのに引き返して、途中にあったカラオケで1時間歌った。
 しかしそれでも興奮は収まらず、続けて入ったのが無印良品の小おしゃれカフェMUJI CAFE。すぐに注文を済ませ席に座ると、興奮が手帳の白紙ページを開かせて、思いつくまま脚本を書き始めた。
 が、書けなかった。まず思いつかなかった。そういえば書いたことなかった。
 首をかしげても何も出ない。あれ。興奮したからって能力が上がるわけではないのか。そっかそっか。
 というわけで、ただ興奮を冷ますだけの時間になったカフェ。冷えたグラスが机を濡らしてる。


「ねえ、LINEってどうやるの?」
 持て余した時間には他人の会話が入ってくる。近くのソファー席に座る女性二人組の会話だった。
 この日は今から4年前の2014年で、みんながやっとスマートフォンに慣れてきた頃だった。フリック入力やスワイプといった言葉に耳馴染みのなかった2011年頃からたった3年で、だいぶ普及したように思う。それでもまだこの会話のように、苦手な人も全然いる時期だった。
 だから話し相手が次のように声を上げたとき、そこまで言う?と思った。
「えええ!? LINE入れてないの!?」


 話し相手はさらに続けた。
「ねえ、もしかしてまだメール使ってる?」
 スマホが苦手な苦美さんが「うんそうだけど」と答えると、
「ええーーー!! 私メールしてるのって一人しか、あ、二人しかいないよ」
 とお姉さま気質の女性が苦言を呈するように驚いた。これまでの会話を英語に翻訳するなら、お姉さまの言葉は全部「アンビリーバブル」でいい。そのくらい必死に「信じられない」というのを伝えているようだった。
 しかしそうやって反応されても、苦美さんは「そうなんだー」とのんびりしていた。たぶん、ちょっと聞いてみただけで、元々新しいことにはそんなに興味がないのだと思う。でもそんなのお姉さまが許すはずがない。
「ねえスマホならLINE入れなって」
「うーん」
「とりあえずLINEって検索しなって」
 乗り気じゃない上に検索だっておぼつかないはずの苦美さんが渋々指を動かし、「うんしたよ」と自分のスマホの画面を見せた。
「そしたらぁ……」と指で次の操作を伝えようとするお姉さまの動きが止まり、「えーっと。いいや貸して」と言ってスマートフォンを奪った。
 そしてタンタンタンと操作するのかと思いきや、スマホを受け取ってからお姉さまは画面を15秒ほど見つめていた。そして端末を半回転させ、苦美さんに返した。「まあ、やっといて」
 ええええええ。


 お姉さまと苦美さんの人柄が分かると会話が一層楽しくなった。手はペンを握っているものの、なおさら一文字も増えそうにない。
「この前、会社に行く前にみんなで花見してさ。出社するとき、道ぎゅうぎゅうで大変だったよ、100人いたからさ」
 こう言って新しく会話を始めたのはもちろんお姉さま。お姉さまの人となりがよーく分かる発言だと思う。
「え? じゃあ100人の人とお話ししたってこと?」
 謎な自慢話には謎な質問。この間の抜けた質問も苦美さんの性格をよく表してる。でもお姉さまは「そこ気になるとこー?」なんて野暮なツッコミはしない。何にだって答えられるんだから。
「え、私、フェイスブックに友達200人いるよ」


 まるで合気道のような会話のあと、苦美さんがようやくカウンターのパンチを繰り出した。
「そういえばね、私のスマホ、写真はすごくきれいなんだよ」
「あ、いいなー。じゃあそれで撮ってよ」
 すぐさまカウンター返しを喰らった苦美さんは、ソファーの横に立って微笑むお姉さまを自らも立ち上がり撮影を始めた。5枚くらい撮ってもらうと、お姉さまは大きな窓のほうまで歩いていってしまう。慌てて付いていく苦美。苦美の写真フォルダは、人のいるカフェでポーズを撮りつづけるお姉さまで埋まっていくのであった。
 申し訳程度に自分も撮影してもらって、唐突の割には長かった撮影会が終わった。スマホを返してもらいながら「ありがとうー」と苦美さんが言った。こうやって聞いてくれる子分がいるから、親分は親分でいられるんだな。
 

 ようやくソファーに座りなおすと、「あっ」とお姉さまが声を上げた。「LINEないんじゃん。メールで送れるのかなぁ」
 撮ったばかりの自分の写真をすぐ送ってほしいみたいだった。あ、ちょっと待ってねと苦美さんはスマホを操作し始めるけど、そんなの苦美さんにできるわけがない。
 苦戦している画面をお姉さまが覗き込んで、「ほら、その『そのまま』ってやつでさ」と指示を出すもやっぱりうまくいかなかった。
「ああ、もう、貸して」
 ついさっきの過ちをもう忘れて、またお姉さまはスマートフォンを借りてしまう。なんか昔話見てるみたいだけど大丈夫?
 そんな僕の心配なんて知るはずもなく、お姉さまはうーんと言いながら5回くらい指で画面をいじって、
「あーキロバイトかぁ」
と言い、スマートフォンを返した。


 キロバイトというのはグラムやリットルみたいな単位のこと。写真や動画のデータ量を表す単位で、キロバイトの大体1000倍がメガ、メガの大体1000倍がギガ。メガは「メガ盛り」とかで使われたり(超いっぱいっていうことを表してるんだね)、ギガも最近10代の会話やソフトバンクのCMで「ギガがもうない」「このアプリめっちゃギガくうじゃん」というふうに使われてきてるのでそろそろ馴染んできた頃だと思う(ちなみにこのギガの表現は、「2リットルの水買うとキログラムがヤバイ」と言ってる感じ)。スマートフォンで写真を撮ると大体1メガくらいで、スマートフォンの容量が大体32ギガくらい。
 そんなギガの10万分の1が、「あーキロバイトかぁ」のキロバイト。目安としては、今のスマホやパソコンで表示すると小さくて粗くなってしまう、ガラケー時代の写真のサイズ。
 だからスマートフォンにとって、キロバイトはなんてことないサイズなんだけど、その謎の単語「キロバイト」に責任を転嫁してお姉さまは脱走しちゃったんだね。
 ぷぷぷと思ってるかもしれないけど(僕も思った)、実はみんなそんな変わりはなくて、同じようなことをしているはず。「コピー機の使い方教えてくれませんか」と聞かれて、ああいいよと余裕で教え始めたのに、なぜかうまくいかないと「あ、これ普通紙のやつか……」とか言っちゃいそうだもんね。素直に「ごめんちょっと分からなくなったわ」って言えればいいのにね。


 と、僕がお姉さまのフォローをしている間に、会話はさっきの花見の話に戻っている。豪腕。
「ねえ見て、これがこの間の桜」と、自分のスマートフォンを苦美さんに渡した。どうやら花見の写真フォルダを見せているらしい。
「へえー」苦美さんがスマホを受け取って、人差し指でスクロールしながら「うわあー」とリアクションを取っていた。
「ねえちょっと待って。一番最初の写真見た?」
「え?」
「一番最初のやつ。ちょっと戻って」
 うん、と言って慌てて逆方向にスクロールをする苦美さん。「あ、これ?」
 その画面を見せると、お姉さまは右手をピストルの形にした。
「それ、満開」




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by yasuharakenta | 2018-10-26 23:17 | エッセイ


 ぽつんとひとりでいる人がほっとけないタチだった。
 そのせいで余計なことをしたなと反省したことも多い。だけど今でもやっぱりそうだし、学生時代は特にそうだった。
 教室にひとりぽつんといる人はたいてい、誰かの悪口を言ったわけでも、いじめられてるわけでもなかった。ひとりでいたいと望んでるわけでもなさそうなのに、話す機会を失って、空気みたいになっちゃった人。
 中3のときのハグさんもそういう人だった。


 小学校は別々で、同じクラスになったのもそのときが初めてだったから、いつからそうだったかは知らない。とにかくいつもひとりだった。ときどきクラスのおとなしめの女子に話しかけてもらう以外は、特に読書も勉強もしてなかったと思う。
 そういう人がほっとけない性格だからといって積極的に何かをしたわけではなくて、話す機会があるときにちょっと多めに話すようにするだけだった。ほとんど忘れてしまったけど、唯一覚えてるのが給食当番のときのこと。
 シチュー担当の俺が目の前のハグさんにシチューをよそうとき、ちょっとおどけて「このくらい? もっと入れる? えーもういいの?」と言った。ほんとそれだけ。だけどハグさんは、言葉こそなかったけど、小さくくすくすと笑ってくれた。それが実は、ものすごくうれしかった。


 入試が終わってあとは卒業式だけという時期になると、卒業式の予行練習などでイレギュラーな時間割になった。その中に「全クラス合同! 3時間ぶっ通し! もらったばかりの卒業アルバムの白紙ページに寄せ書きを書き合う時間!」というのがあった(タイトルは今勝手につけた)。俺は吹奏楽部の部長をやっていたせいで顔が広かったので、後々「浅く広くだったなあ」と思うとも知らず、全4クラスを行ったり来たりして書いたり書かれたりした。120人いる同級生の、半分以上とはやり取りしたんじゃないかな。
 パパっと何かを書くのは苦手じゃなかったから毎回それなりの分量で書いたけど、一番仲の良かった榊のは、どうせすぐ会うからと簡単なメッセージになった。榊からのメッセージも「またあそぼ」の5文字だけだった。こういうものなんだろうなって思ったのを覚えてる。


 相当な数のやり取りを終えてもまだ時間が余った。自分の教室に戻って、後ろ側の右端、壁際の自分の席に座ると、左のほうからハグさんが歩いてきた。たまたま周りには誰もいなくて、明らかに俺のところに来ていた。こんなこと初めてだった。卒業アルバムを持っていて、「これ書いてください」って言った。
 「あ、うん」と笑顔でアルバムを受け取って、4行くらい書いたんじゃないかと思う。ハグさんのアルバムは、俺のとは違ってほとんど白紙だった。周りに誰もいないのに、ハグさんはどの席にも座らず、机の斜め左前でずっと立っていた。
 「はいこれ」と言って笑顔でアルバムを渡すと、ハグさんが「ありがとう」と言った。「ううん全然」って返す。
 それをきっかけに僕らは日常的に会話をするようになって、高校もその後もずっと、長く続く友達になった。


 という続きならよかったんだけど、文章読んでて気付いているかな。
 俺が卒業アルバムを渡してないこと。


 俺は昔からそういうところがあった。今もある。自覚してる。
 いわゆる「弱い人」を気にしてアプローチするくせに、仲間だと認識されると「そういうんじゃねえから」という態度を取ってしまう。癖、と言うにはあまりに最悪だ。


 小2のときに仲良くしていたYは、2、3日同じ服を着ていたり、あまり清潔じゃなかったから嫌なことを言われてたらしい。そんなYとよく公園で遊んだ。というか公園で遊んだことしか思い出せない。2人で公園で、どうやって遊んでいたんだろう。
 一度Yの家の玄関前まで行ったことがある。ドアの隙間から、すぐそこのダイニングテーブルの周りに新聞だの雑誌だのが散乱しているのが見えた。典型的な貧乏の家に見えた。
 Yには言ったことがないけど、Yは作文が上手だった。自分も含めクラスメイトが、楽しかったとかすごかったとか感情のことばかり書いている文集の中で、Yが書いた母親と弟と展覧会を見た話は全然違った。「はるかちゃんのおかあさんにチョコもらった。」「ふうん。」という乾いた文体が他とはあまりに違っていて印象的だった。
 だけど、数ヶ月経つと、Yとはあまり遊ばなくなった。その理由が今なら分かる。というかその時も分かっていた。言葉にすると残酷だからしなかっただけだ。当然のように友達面をするようになったYに対して(友達なのに)、そういうんじゃねえからというのを示したんだと思う。もしかしたら周りの人が言う悪口に気付いたのかもしれない。そういうことを言ってた、後に地元大好き祭り大好き仲間大好きになる、マイルドヤンキーとさえ呼ばれるようになる人たちと、Yは全然違っていたのに。


 小4のころ、上手に学校生活が送れなかったのを、担任のS先生が支えてくれた。あなたは特別なのよみたいなことは言われなかったけど、外れそうになる俺をいつも尊重してくれた。S先生がいなかったら耐えられなかったこともあったと思う。
 小5でのクラス替えで、S先生が別の学年の担任になった。新しいクラスで、S先生はおせっかいでうるさいおばさんだとみんなが言っていたことを知った。だから、あんなに大好きだったのに、一度もわざわざ会いに行ったりしなかった。高学年にもなれば、あのときはありがとうくらい言えたはずなのに。


 そういうことをハグさんにもした。
 自分の卒業アルバムを渡さないことで、そういうんじゃないからというのを示したんだろうな。だけど表情はあくまでも笑顔で! あたかも天然でつい忘れちゃった感を出すことを忘れずに!
 はあ。ハグさんはどう思ったかなあ。あれって思っただろうなあ。それでも嬉しかったのかなあ。
 シチューをよそうときにしたちょっとしたことは、なるべく寂しくないといいなと思ってしたことだった。それがちゃんと伝わってたんだって、俺もすごく、本当はめちゃくちゃはちゃめちゃ嬉しかったのに。


 そんでそのまま卒業した。
 卒業式の夜の打ち上げ(なんだ打ち上げって)にも来てなかったし、その後マイルドヤンキー(高校生編)が開いてくれた学年同窓会にも来てなかったと思う。俺も出なかったけど、成人式にも来てなかったらしい。そりゃそうだよね。
 高校生のときも、大学生のときも、その後もちょくちょく思い出してた。高校はどう? 部活は入った? クラスの人はどんな人? 聞きたいことがその都度あった。
 あのとき卒業アルバムを書いてもらってもう少し話をしてたら、そのときはいなかったであろうハグさんの、その後も続く唯一の味方みたいなのになれてたかもしれなかった。ねえ聞いてよって電話で愚痴を聞いてたかもしれなかった。むしろ、俺の大切な友達になってたかもしれなかった。


 当然、連絡したいと思うこともあった。
 だけど小学校が違うから家も知らないし、同級生に取り持ってもらうにも彼女と仲のいい友達を知らなかった。
 同じ小学校だった人に連絡すれば、住所が分かって年賀状くらい出せたかもしれないけど、結局それもしなかった。


 地元の街を歩く姿をイメージするといつも、髪が長く、顔がよく見えず、重たそうなクリーム色のトートバッグを肩にかけて、そそくさと、だけどとぼとぼと歩くイメージになった。
 いい友達ができてるといいな。どうかそのイメージと違うふうに歩いていますように。


 卒業から10年くらい後、またふと思い出して、どんな顔だったっけと卒業アルバムを見返して驚いたことがある。なんとねハグさんね、美人さんだったの。
 テレビを見てると、かわいいかどうかが重要すぎて女性は本当に大変だと思う。美人アスリートにばかり取材が行くことを、練習だけしてきてようやくメダルを取ったそうではないアスリートはどう思うんだろう。どうしてそういう人を恥ずかしい気持ちにさせるんだろう。いつもふてくされたような気持ちになる。
 でも、批判は一旦置いておいて、現時点でそういう世の中だというのは確かだと思う。容姿の重要度はものすごく高い。だけど、ハグさんだって美人だったのに。
 確かに中学校の頃は、実際にかわいいかカッコいいかよりも、かわいいグループにいるかカッコいいグループにいるかのほうがモテ度に影響してたとは思う。
 でもそれにしても美人だったのにひどいじゃん!って、まるで容姿で判断しろよって思ってるような、よく分からない感情になった。
 

 全然会ってなかった中学の友達の結婚式で、卒業以来に会う同級生にハグさんの話をしたら「なんかすごいおしゃれになってたのを見た人がいるらしい」という噂を聞いた。いいぞいいぞ。本当だったらいいな。
 まじ黒歴史だからさとか言って笑えてたら最高なんだけどな。黒歴史の中の一部ではあるけど、シチューくらいしか思い出話がないから、いっそ新しく友達になってくれませんか。




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by yasuharakenta | 2018-10-13 22:18 | エッセイ


 羽田空港からの帰りで、スーツケースを持った長い電車移動の途中だった。まださらに40分ちかく乗らなければならなかったので、乗り換えた電車に空席をひとつ見つけてほっとした。電車は進むにつれみるみる混んでいき、視界は人の壁でいっぱいになった。


 一息つくと、左隣に小学生男子二人組が座っていたことに気がついた。もう21時を過ぎていたのに、進学塾の帰りなのかプリントを持って熱心に復習している。そんなに大きくないように見えたけど、プリントには「小6」と書いてあった。


 とくに真隣の男の子の熱心度は高く、「うーんと、うーんと」といいながら算数の比の問題を解いている。うーんとうーんと、って架空の台詞じゃなかったんだ。
 前に塾で教えてきたときは、勉強が苦手だったり嫌いだったりする生徒を多く教えていたので、こんなふうにゲームみたいに楽しく勉強ってできたんだなと思わさせられた。


 そんな彼とは違い、さらに左に座る男の子は冷静で、社会のテキストを片手で持っている。その、冷太(れいた)のテキストを、温太(ぬくた)が覗きこんだ。


「あ、これ大化の改新でしょ? えっとえっと、大化の改新は『なかのおおえの』とー、そがのうま……いるかだったー!」


 一番気になるところがあるけど、まず中大兄皇子を略しているのがなんともラブリーだ。それから、蘇我入鹿はたしかにインパクトのある名前だったけど、イルカじゃなく「動物の名前」だって覚えるからそういうことになるんだ。
 この後も温太はかわいさを爆発させ続けた。


 二人ともやることをコロコロ変え(電車内でこれを終わらせようと決めているのかもしれない)、続いて理科のプリントを取り出した。一枚のプリントを二人で見ながら温太が言った。「尿は尿管をとおってー、アンモニア水になるんだっけ?」
「アンモニア水じゃないでしょ」冷太がクールに返答した。それでも温太のクエスチョンは止まらない。
「おしっこって何性だっけ? アルカリ性?」
「アルカリせ……」と言いかけた冷太が、突然小声になって「ここでこういう話するのやめようよ!」と注意した。
 確かに。彼らの周りは人だらけ。
「あ!」と温太は口に出して言ったあと、「そっかー!」と笑った。


 そのうち温太が、持っていたプリントをガサガサとリュックにしまい始めた。降りる駅が先に近づいてきたらしい。リュックのボタンをぱちんと留め、駅への到着を伝えるアナウンスが聞こえると、スーツを来た大人だらけの中にポツンと立ち上がった。
 電車のドアがいよいよ開きそうになると、温太は冷太のほうを振りむいて、右手を軽く振りながら、


「じゃあねー、あいしてるよー」


と言った。突然言った。酔ったおじさんみたいに言った。本当に言った。
 口を閉じたまま目を大きく見開く、まるで目の前で恋人たちがキスをしたときのような表情を小6の男子にさせられた。相当驚いている俺の横には、まったく動じていない冷太が座っている。いつも言ってるのかよ。
 控えめに言って最高。温太、俺も君が好きだ。




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by yasuharakenta | 2018-09-26 22:53 | エッセイ


 夜、JRから地下鉄への外乗換(いちど駅の外へ出る乗換)をしていると、カツンカツンという音が後ろから聞こえた。振り向くと男女の二人組。その音は、そのどちらもが叩く白い杖の音だった。二人とも20歳くらいで、男の人はボーダー、女の人は薄めの白い服。そして杖を持たないほうの手で、手をつないでいた。
 暗闇を、音の指針を頼りに堂々と進んでいるのがたまらなくかっこよく、何よりずーっと笑っていたのが最高に幸せそうだった。


 駅の構内に入る直前、メールを送る用事を思い出して立ち止まっていると突然「いたっ」という声がした。さっきのカップルの女の人だった。
 駅前には「∩」の形をした80センチ程度のポール(おそらく車進入禁止用の)があり、女の人はそのポールにぶつかった、というか、ギリギリ乗り越えてしまったようだった。
 「え、どうし、大丈夫?」そう男の人が笑いながら言った。ばかにしている笑いじゃなくて、困ったときに出る笑いだった。
 「うんだいじょ、大丈夫」明らかにまだ痛がっているのに、彼女は大丈夫と彼に言って、二人は駅へと入っていった。
 本当はずっと話しかけたかった。大丈夫ですかと言いたかったんじゃなくて、友達になってみたかった。素敵なカップルですねって言いたかった。
 だけど障がいのない人にはそんなことしないもんな。自分にそう言いきかせて、メールを送り終えてから僕も地下鉄駅に降りていった。


 そのあと、電車を待ちながらふと、障がい者の友達ってどうやって作ったらいいんだろうと思った。
 異性の友達は本気になれば、料理教室にでも行けばできる。外国人の友達ならHUBにでも行けばできるかもしれない。でも、障がい者の友達って?
 いざ考えてみると、街のどこにも障がい者がいない。大通りにも、スタバにも、ルミネにも障がい者がいない。東京に住んでいるのにどこにもいない。あれ、あれ、あれと思ううち、そもそも障がい者と会う機会自体が少なすぎるということに気づいた。


 バリアフリーという言葉を使うのが苦手だった。バリア(障壁)をフリーにする(なくす)という言葉には、バリアを前提としてとらえている響きがあるからだった。ただそれまでの僕がバリアだと思っていたものは、段差であったり、手すりや点字の有無であったりといった「施設的」なものでしかなかった。
 「そもそも障がい者と会う機会自体が少ない」ということに気づいたこのとき、バリアの正体を見た気がした。
 障がい者の友達を作ろうと思ってもどこに行けばいいかがわからない。電車で見かけた障がいのある人に「障がいって大変ですね」と話しかけるのはおかしいし、障がい者の学校に行って「ぼく障がい者と友達になりたくて」と言うのは相当な失礼だ。でも、じゃあどこに行けばいいのかな。
 友達は普通、「同じ場所にいる」ことでなんとなくなるものだと思う。だけど障がい者と(いわゆる)健常者は、まず同じ場所にいない。
 ああ、断絶していたんだ。そう思った。
 (そもそも、障がい者の友達を作ろうという発想自体が断絶を表していたんだね)


 僕が通っていた「普通」の小中高は、障がい者を排除することで「普通」のふりをしていたのか。でも、例えば世界に50代のおじさんしかいなかったら、その世界って普通かな。普通って、「いろいろいる」っていうことなんじゃないかな。
 障がい者と健常者が同じ学校か、せめて併設されていて部活動や行事を一緒に行っていれば、ここまでの断絶は起こっていないように思えた。
 正直にいうと、僕は障がい者との接し方がわからない。他の人と同様に接していいかどうかすら知らない。怒ってる人はそっとしておこうとかそういった方法論を障がいのある人に対しては持っていなくて、電車内でひとりごとを言って歩き回る知的障がいの人を見ると気にしていないふりをしてしまう。家の近くにある福祉作業所は、具体的にはどういうことをしているんだろう。
 お化け屋敷や初めての面接が怖いのは、何が起こるかを知らないからだ。知らないという不安はやがて恐怖に変わる。その恐怖が、排除をより進めてきちゃったんだろう。
 でも、僕は今まで一切接点を持たずに生きてこられたことのほうが恐ろしい。大きな健常者タウンのどこに、障がい者たちはいるんだろう。
 あの二人。手を繋いで夜をぐんぐん進んでいたあの二人は、本当に素敵だった。うらやましくなるほどだった。けれど、もしかしたら「障がい者同士でしか出会えなかった」のかもしれない。


 NHKのオイコノミアという番組で、耳の聞こえないこどもたちの生活する施設にピースの又吉直樹さんが取材にいっていた。夕飯をたべながら「はじめまして」と目を合わせたり「おいしいってどうやるの?」と教えてもらったりしていたのが、そのうち十数人のこどもが普段どおりになり、手話で「あのときお前さ!」「ちがうよ!」「っていうかさ!」のように怒涛に会話を始めると、又吉さんはただ黙って座っているだけになった。
 「こういう言い方は失礼かもしれませんが、あの場では又吉さんのほうが障がい者だった」取材後そう言われていた。つまり障がいとは、あるはずの機能がないということではなく、ただ多数派であるかどうかということだった。それだけだった。
 手を怪我して片方の手で生活をしてたとき、意外と困ったのがドライヤーだった。ドライヤーは、持ってないほうの手で髪を整えながらするものなのだとそのとき気がついた。人間の腕のデザインがはじめから一本だったら、ドライヤーは壁に設置するタイプだったかもなぁと思った。
 腕が三本のコミュニティに行けば僕が少数派になる。仕組みのちがう生活スタイルでは、自転車に乗ることもできないだろうし、カフェでコーヒーを買って席に運ぶという動作でさえままならないかもしれない。腕が三本の人たちが自分たち以外を排除していれば、だけど。
 少数派=障がい者かどうかは、多数派次第だから。


 あの二人と、乗る電車も降りる駅も同じだった。
 電車を降りて階段に向かっていたときにそれに気づいた。二人がなぜかこちらに歩いてくる。こっちに階段はないのに。
 「階段あっちですよ」僕がそう言うと男の人が驚いた。「あ、」彼は笑顔と苦笑いの中間のような表情でこう続ける。「あの自動販売機で飲み物買いたくて」
 後ろには確かに自動販売機があった。「ああ」僕も同じような表情になってその場を去りかけたとき、女の人から小さく「ありがとうございます」と聞こえた。




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by yasuharakenta | 2018-09-13 19:53 | エッセイ

ツイッターより。
https://twitter.com/yasuharakenta
https://twilog.org/yasuharakenta/date-150715


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いわないところに、の話。

「いわないところに本音があるの」という詩を、以前に書いた気がする。これは「好き」という気持ちだったり、逆にすごく悪い意味でこころに残っていたり、その人が言葉にしていないところに、本当の気持ちがあるという意味。(詩を、しかも自分で解説するのは蛇足ですね)

800以上の詩を書いて、様々な方法論が浮かんでは消えたけど、一貫してやっているのは、戦争に関する言葉は使わないというもの。これはポリシーとして掲げているというより、単にいやだから使っていないだけ。戦いに関する言葉を使うことで、その嫌気がマヒしていくのがいやだった。

だけど詩の(特に作詞の)世界では、まあ多いんだ。「これは俺の戦い」とか「戦場で」とか「銃を向けた」とか。使う人を非難はしないけど、僕はやめておこうというスタンスでいました。

ももクロをイメージして勝手に作詞した「アイドルソング」という詩では「私達絶対負けないけど別に戦いに行く訳じゃない。そうやって人を殺す名前で私達を例えたりしないで」と書いています。アイドルも(煽る大人が)「戦い」をよく使います。「戦士」と言われるアイドルの葛藤を想定した言葉でした。

「いわない」方法というのは、絶滅危惧種みたいな、とても弱い方法です。「いわない」ことでは「いう」ことを消せません。ただ0でいるだけ。誰かがまた「戦い」の話をするのを、マイナスにする力はありません。

「いわないところに本音があるの」と書いたけど、自分のトラウマに値することほど言葉にはしづらいもの。言葉にしないうちに傷が治ることを期待してるのかもしれない。過去の辛い失恋だったり、いじめだったり、挫折だったり、別れだったり。それを口にしない人ほど、深く傷ついていたのかもしれない。

だから、戦争の経験を伝えなきゃと思って話をしているおじいちゃんおばあちゃんは、それを乗り越えざるを得ないくらい、そんなこと言ってられないくらいの気持ちになったんだと思います。今でもその体験を口にできない人もいると思う。それはその人の弱さじゃない。それが戦争の強さなんだと思う。

何かを反対する気持ちというのは、いつも弱い。口をつぐむことは悲しいけど0でしかない。口にしても、反対の声というのはいつも荒らげで、する方も聞く方も疲れさせていく。一方、何らかのコンタンがある人は、予防接種みたいに少しずつ、少しずつ日常に毒を盛ればいいだけ。

そしてマヒさせて、小さな一点でも穴があいたらもうおしまい。その穴にドリルをあてれば、一気に大きな穴があきます。0と1は違うけど、1と10は似てるんです。ここが怖いところ。

ワンマンバンドに王様みたいな人がいて、周りに意見に従わせて作った音楽アルバムが、世間の心を打って大ヒットになることがあります。だけどそれは芸術だから。

ワンマンバンドと、みんなの代表という立場を勘違いして強行採決をするのとのには大きな隔たりがあります。バンドにはバンド側と観客がいる。だけど、国というバンドに観客はいない。

ワンマンバンドの王様が、きっと何処かに分かってくれる人がいるはず、と思ってワンマンプレイをするのとは、全然違うんです。国には観客なんていないんだから。全員がプレイヤーなんだから。たかだか数人のバンドとは訳が違う。1億人の演奏。自分勝手ではうまくいかない。

今悩んでること、恋をしている人、仕事上のトラブル、家族の悩み。そういうのが愛おしくなるのが戦争。そういう悩みを蹴散らすほどの、大きな渦なんだから。苦しくて愛おしい日常を、ぶっ壊すのが戦争。

日本人を守るためにっていうけど、攻撃すれば世界の誰かを失うんだ。世界のどこかの人を守るためにも、戦わないほうがいい。(その世界の誰かが、自分のイトコだったら?友達だったら?と想像してみる。)

憲法9条って、超カッコイイんだよ。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」だよ。「希求し」だよ。願って求めるんだよ。平和を。

永久に放棄するってかっこよすぎる。こんなことなかなか言えないよ。こんなことを言いたくなったのが、戦争後の本当の気持ちなんだ。それを未来の俺らが勝手に解釈しちゃだめなんだ。同じ気持ちなるからな、やめとけよっていうアドバイスであり、メッセージなんだよ。

どっちの方向を向いてるのかっていうのが大切。この法案では、戦争には繋がりませんって思っていても、どっちの方向かといえば戦争の方向だ。誰かひとりでも、戦争したがりが紛れ込んでたら終わり。後ろを向いてれば、9条の方を向いてれば、可能性はかなり低くなる。

それは逃げじゃなく、平和への希求(ききゅう)。行き先はそっちでしょ。

将来の子どもが「9条って弱くねー?」って言ったときに「でもあの弱い文を守るのは大変だったんだ。ゲームでも、弱いとすぐしんじゃうだろ?」「うーんそうかも」「なんとか守れて本当に良かったと思ってるんだよ。外国も日本を見習おうってなってきてるんだから」と言いたいよ。

憲法とか法案とか、中学生や高校生でむずかしく感じたら、戦争に行きたいか(クラスメイトに行かせたいか)を考えてみて、嫌だったら反対でいい。「まさか私を戦争に巻き込もうとしないよね?」って親に言っていいよ。こんなことしてる人たちに、当然次は投票しないよねって。

暮らしをよくします!って言って当選した人たちがそういうことしてんだから。国民が!って言ってクラス会より子供みたいな議論して、相手(相手の議員だって国民)を罵倒してる人たちなんだから。もし前回投票しちゃってたとしたら、反省して、次は気をつけなきゃねって。

賛成の人と反対の人を集めても、日本人口の半分もいかないよ。だから中学生とか高校生が、戦争ってやだよねーってドリンクバー飲みながら少し話して、夕飯のときに戦争ってやだよねーって親に言うだけで、勢力は大きく、かなり変わるよ。

コツは、言いすぎないこと。どんなに正しいことでも、声を大にして話してる人からは遠ざかっちゃうから。普通のトーンで、ねーって言って、それを今までより少し空気になじませていくだけ。

「いわないところに本音があるの」。戦争体験について話すおじいちゃんおばあちゃん、また70年経っても話せないおじいちゃんおばあちゃんを、想像してみる。「希求」と「永久に放棄」という言葉に救われた、戦後の人たちを想像してみる。

または、自分が他国の人だとして、日本を攻撃したいかを考えてみる。攻撃したくないなら、させちゃだめ。させないようにするには、しないことしかない。(させないように日本以外すべてを破壊する、以外には。)

0にしかならない方法でも、空気を少し変えていけば、まわりもだんだん0になる。そうすれば飛び出している尖った意見がより鮮明に見える。その人はきっと、恥ずかしくなる。

いわないところに、の話。おしまい。行間を読むってこと。想像するってこと。




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by yasuharakenta | 2015-07-15 22:52 | エッセイ